Special featured Article 008

BackNumber

009. 「“人間の手”が欠かせない」第3回
建築家・柳澤 孝彦氏
「東京、そして再びNYへ 人間の手が創る奇跡」
[2004/01/07]




008. 「“人間の手”が欠かせない」第2回
建築家・柳澤 孝彦氏
「松本から東京へ 建築家をめざしたきっかけ」
[2003/11/19]




007. 「“人間の手”が欠かせない」第1回
建築家・柳澤 孝彦氏
「NY -摩天楼に刺激を求めて・若き日の柳沢孝彦-」
[2003/10/14]




006. 「いつもクルマがそばにいた」
ペーパーアーティスト・太田 隆司氏
[2003/06/02]




005. 「チーズケーキにつかまって」
有限会社 いちご亭 代表取締役 田村 實氏
[2003/04/04]




004. 「小江戸・川越 和菓子のルーツを訪ねて」
銘菓・亀屋本店社長 
山崎 嘉正氏
[2003/01/17]




003. 「500年の時空を超え現代にその輝きを放つ金唐革 壁紙のルーツを求めて」
株式会社義輝会長
白濱 輝雄氏
[2002/10/30]




002. 「民芸の里に息吹く芸術の火」
女流陶芸家 大宮司 道子氏
[2002/08/09]




001. 「江戸時代のデザイン感覚 ―歌舞伎に見る色と意匠―」
たばこと塩の博物館学芸員 谷田 有史氏
[2002/05/01]




 

  “人間の手”が欠かせない -建築家・柳沢孝彦-  

 
 
 

新国立劇場、東京オペラシティ、東京都現代美術館など、現代の日本を代表する公共文化施設を設計してきた建築家・柳澤孝彦さん。 今回はその少年時代と建築家をめざすきっかけ、竹中工務店時代に手がけた久遠寺の大本堂について伺ったお話を送ります。

松本から東京へ 建築家をめざしたきっかけ
 
 
 


松本 山の向こうへ・建築家を目指したきっかけ 柳澤さんは長野県・松本市の出身。自然が豊かで、下駄履きがあたりまえ、大学進学のために東京へ出てくるまで靴を履いたことがなかったほどだったという。
そんな自然に囲まれた少年時代を柳澤さんはどのように過ごし、なぜ建築家になろうと思ったのだろう。
 
 
 


 
 
若き日の柳澤孝彦(竹中工務店時代・写真中央)
大学を卒業し、竹中工務店へ入社。竹中工務店を選んだのは、建築が造られていく現場の中で設計を考えたいと思ったからだという。
   
 私は長野県松本で生まれ育ちました。ですから私の思考や感覚のDNAは、まぎれもなく自然の中の郷里・松本ですね。

 松本は周囲を山に囲まれた盆地でしたから、日々山を背景にした景色の中に育ったわけです。とりわけ険しい姿を常に転変とさせる北アルプスは、自然が放つ強力なメッセージであったように思います。

 それがまた厳しさ故に実に美しい風景でした。中央にひときわ高い常念岳から続く北アルプスの稜線は、幼い頃からの絵に繰り返されたものでした。そのような山々に囲まれた風土は、山の向こうの世界を想像する心を育み、ある種の憧れを生じさせます。それは島崎藤村に明かですよね。現実の世界を想像へとつなげるメンタリティーは私の中にも多分に潜んでいたのでしょう。私も東京芸大建築科をめざすことになるのです。

 
 
 

安曇野の田園風景
柳澤さん自身が撮影した安曇野の田園風景。
「建築東京」に柳澤さんが連載されていた「建築の原風景」の一節には、「年々めぐりくる安曇野の四季は、いつも美しい。中でも、誰しもが目を見はる奇跡の時、早苗月は格別だ。田毎に水が張られて、安曇野一面が一気に鏡のごとき水面と化す」とある。
早苗月は陰暦5月の異称。写真の風景は市内からすこし離れた場所で、少年時代の柳澤さんがよく訪れたという。
 
 
   
 私は小学校の頃から絵が好きでした。特に小学4〜5年の時の2人の先生の影響は絶大でした。その1人は書の達者な先生で、自分が作品にこだわる話が、私には実に印象深い記憶があります。何かを創作する、そういう現場を感じさせてくれる先生でした。同時に絵描きさながらの先生もいて、加速的に絵が好きになりましたね。今思えば、創作者の手の力のようなものを微かながら感じ取っていたのでしょう。絵は中学になっても、描く楽しさは変わりませんでした。高校へ入ってからも、毎日自転車の後ろに絵の具を積んで、絵を描きまくっていました。

 大学は東京芸大の油絵科を目指すつもりでしたが、高校の先生に君のデッサンでは難しいと言われ、絵を断念するかわりに建築にしようと、急遽決めてしまったのです。駄目と言われてかえって芸大に入りたい思いがふくらんだのでしょうか。しかし受験への準備知識もなく、高校の先輩からかすかな情報を得てのぞむわけですが、入試の一環に既存建築の写生があり、それは上野の博物館の表慶館を描くものでした。絵は得意とばかりに描きなぐった私に先輩が心配顔でのぞき込み「柳澤、おまえなにやってんだ」と言うのです。隣を見ると、建築の設計図のごときまっすぐな線で描いているんですね。既に提出時間直前で万事休すでした。これを機会に一層建築科への志望をつのらせて、幸運にも翌年入学を許されたのでした。

 想えば人一倍好奇心が強く、なんにでも興味を示す性格は、絵画に始まり音楽にも深い興味をもった下敷きがあり、したがって美術館やコンサートホールの設計を楽しんですることができています。
 
 
   
 

 
 
総本山身延山久遠寺  
〒409-2593 山梨県 南巨摩郡 身延町 身延 3567  
日蓮聖人の開いた、日蓮宗総本山。本堂は日蓮聖人700遠忌の記念主要事業として再建され、1985年5月に入仏落慶式が行われた。静寂な空気に包まれ霊山の趣きあるお山は、全国からの参拝者が絶えない。
   
東京T 黒の大本堂・身延山 久遠寺
日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の大本堂は、柳澤さんが竹中工務店時代に手がけた作品のひとつである。建築というのみならず、宗教空間を創りあげるために柳澤さんが凝らした工夫とはなにか。

 身延山久遠寺の大本堂は竹中設計部時代に手がけたものです。大本堂ですから木造建築の構成美を目標に置いたのですが、残念ながら当時では既に柱や梁に使う大断面で長ものの木材は調達不能でした。国産は言うに及ばず、台湾檜などでも揃えられず、たとえあっても極めて高価でしたから、木構造は断念せざるを得ず、結局基本構造はSRC造としたんです。しかしSRC構造そのものでは、お堂にふさわしい構成にはならないので、SRC造と一部木造の混構造を考え出したのです。

 たとえばSRC造の柱の外周を6センチ厚の木造の鞘柱を巻き、木造の梁が木造の鞘柱にかかるという具合に、SRC造を核構造として、二次部分の構造は木造同士が組み上げるというかたちで、木造の架構美を表現することができたと思います。そして木造部分を構成する鞘柱などが集成材となり、継ぎ目が露わになることを嫌って、木部は全て「黒い含しん塗装」としました。宗教空間として黒い色の奥に木目がかすかに輝く風合いを狙ったのです。
   
 

SRC構造(steel framed reinforced concrete structure 鉄骨鉄筋コンクリート構造)
鉄骨骨組のまわりに鉄筋を配置し、コンクリートで一体化した構造。 比較的小さい断面でじょうぶな骨組を作ることができ、粘り強さがあるため、高層の建築に多利用されている。
写真は文中で話題になっている黒い柱。SRC構造を囲む木の鞘柱は、黒塗りによって継ぎ目が見えない。
 
 
   
しかし黒塗には強い反対意見を持つお坊さんがいらして、結局、法主猊下をはじめとする高僧会議の席で、コンセプトを説明して承認されたという一幕もありました。黒塗は最良の選択だったと思っています。

 そして宗教空間をどのように形成するかとの思いの中で、天井に着目し、天井一面に龍の画と決めました。御堂を囲むように四辺に障子を建て込んで、自然光の拡散によって天井の龍に命を与えようとの発想です。障子から拡散される刻一刻と変化する自然光の放射によって、あたかも龍が生命を持ち、生きているかのような動きを起こしたかったのです。すなわち静謐な空間に忍び寄る光と影の動きが時間性を帯びて、人々の心に働きかけると考えたのです。

 天井画は古来の宗教建築の中にもあって、建築と美術が一体空間をつくるというのは伝統的な手法でもあります。天井画は当時の第一線で立派な仕事をされている5人の日本画家の中から加山又造画伯を決定し、13.5M四方の天井に巨大な墨龍が描かれました。(次回に続く

大本堂天井画「墨龍」 加山又造・作
加山又造は絢爛豪華な現代日本画を代表する画家である。昭和2年、京都に生まれ、他に「迷える鹿」「悲しき鹿」「冬」「千羽鶴」などの代表作がある。装丁画や挿絵など幅広い活動でも知られており、そこにおいても高い評価を受けている。最近では平成11年に井上靖文化賞を受賞、本年度(平成15年)には文化勲章を受章した。東京芸術大学名誉教授。
 
 


← Prev    Next→
 
 


柳澤孝彦(やなぎさわ たかひこ)プロフィール
1935 長野県松本市に生まれる
1958年 東京芸術大学美術学部建築科卒業 (株)竹中工務店・設計部入社
1968〜69年 渡米、タケナカ&アソシエイツ・SF事務所及びコンクリン&ロサント・NY事務所にて設計活動
1981年 (株)竹中工務店東京本店設計部長
設計部長時代に手掛けた代表作は熱海MOA美術館、有楽町マリオン、大手センタービル、日蓮宗総本山身延山久遠寺大本堂(いずれも[BCS賞]受賞)などがある。
1985年 (株)竹中工務店プリンシパル・アーキテクト
1986年 [第二国立劇場(仮称)【正式名称 新国立劇場】]国際設計競技で、最優秀賞を受賞
同年 (株)TAK建築・都市計画研究所を設立
代表取締役に就任、文化施設を主軸にした設計活動を展開。
1990年 真鶴町立中川一政美術館にて第15回[吉田五十八賞]受賞
1992年 真鶴町立中川一政美術館にて第33回[BCS賞]受賞
1994年 郡山市立美術館にて第35回[BCS賞]受賞
1995年 [郡山市立美術館および一連の美術館・記念館の建築設計]にて第51回[日本芸術院賞(第一部・美術)]受賞
窪田空穂記念館にて1995年[日本建築学会作品選奨]受賞
1996年 東京都現代美術館にて第37回[BCS賞] [第14回日本照明賞] 受賞
1998年 新国立劇場にて日本建築学会賞[作品賞]受賞
郡山市立美術館、窪田空穂記念館にて第6回 公共建築賞[優秀賞]受賞
2000年 東京都現代美術館にて第7回公共建築賞[優秀賞]受賞
三鷹市芸術文化センターにて第7回公共建築賞[優秀賞]受賞
東京オペラシティ(JV)にて第1回American Wood Design Award / Merit Award受賞
2002年 桶川市民ホールにて第8回公共建築賞[優秀賞]受賞
●2000年4月18日号の「ニューヨークタイムズ」誌に、2頁にわたり、世界的な音響を成功させた東京オペラシティコンサートホールの設計者として紹介される。
関連リンク
◆柳澤孝彦+TAK建築研究所
◆身延山久遠寺オフィシャルホームページ
リンク集はこちらへ