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陶彫という言葉がある。陶器、陶芸による彫刻、芸術といった意味で、表現の方法の一つだ。
大宮司道子はその陶彫家である。焼き物の里として全国的に有名な益子の地に窯を構えているが、生活の器、民芸というイメージの強いこの地にあって、その対極にあるような作陶活動を続けている。自由で、奔放で、縛られない。不思議な人だ。
パッと見たところはどこにでもいる普通のおばちゃんである(失礼)。とても前衛的な作品を作る陶芸家には見えない。小柄で温かい風貌で、客が来ると食べきれないほどの物を出して人をもてなすタイプ、そういう人である。 語り口も柔らかい。素人のような我々の質問にも、ひとつひとつ丁寧に答えてくれる。すごく繊細で、すごくナイーヴだ。
そんな彼女が、ひとたび作品や作陶について語り出すと、まるで溶鉱炉のように激しいオーラを身にまとう瞬間がある。口調が激しくなるわけでもない。ただ、ぐっと、存在感が増すのだ。
「なんでもね、面白味は、あった方がいい」
笑いながら、さりげなく凄味のあるセリフを大宮司道子は口にする。
「異質でかまわないですよ。みんながやっているようなことがなかなかできないし。みんなが器を作っている時にあえて右に倣うこともないので、日頃考えている方向へ創作していると異質になってしまうのョ」
実用品、民芸の中心地というイメージの強い益子で、自分が作りたいものを作りたいように作るという彼女は、たしかに異質の作家である。しかしそれは、異質さを求めてそうなったのではなく、彼女の言う「面白味」を求めた、その結果として異質な存在になったのだ。
ぐるぐると回転し、進化する小宇宙。
それが女流陶芸家・大宮司道子である。
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「益子の焼き物はね、民衆の中で雑器として育ったの」
と大宮司道子は言う。
「それが時代とともにね、ただの雑器のままだったらプラスティックに押されてしまうでしょ。プラスティックは長持ちするし、プリントもできる。新し物好きだからね、日本人は。でもプラスティックは長年使っていると飽きるし、汚れるの。陶器は使えば使うほど味が出てくるからね。それでまた陶器に目がいくようになって、そうするとただ実用的なものではなくて、そこにいろんなものを提示したくなるのよ」
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典型的な益子焼きの壺。
庶民の生活に密着した、いわゆる「用」のための焼き物である。
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益子で焼き物の歴史が始まったのは1853年(嘉永6年)、明治維新の直前のことだ。その歴史は約140年程度で、他の伝統的な焼き物と比べると短い。笠間で焼き物の技術を取得した大塚啓三郎が、瓶(カメ)やすり鉢、土びんなどを生産したのが始まりである。この18世紀から19世紀にかけては、殖産興業の一環として全国各地で藩窯や民窯が興り、おびただしい数の焼き物の里が誕生した時代でもある。
益子の名を有名にしたのは、大正13(1924)年に益子に移り住んだ濱田庄司と、濱田によって展開された民芸運動だ。
民芸運動とは、「無名の工人が反復練習して無作為のうちに作った手仕事にこそその工芸の美を認める」というもので、雑誌「白樺」の創刊者の一人でもある柳宗悦らとともに、工芸が本来もつべき美の根源を、民衆の生活の中から見いだそうとしたものである。これが益子焼き=民芸というイメージ定着の原点となっている。
昭和三十年代に、益子は空前の益子ブームを迎える。益子焼きの素朴な味わいを求めて、全国から愛好家が訪れたり、陶芸家を志す多くの若者が益子の地に根を張る。益子の地が、外からの移住者を気さくに受け入れる土地柄だったからだろう。現在では、益子の窯元は個人の作家、企業を合わせて四百とも四百五十とも言われており、その数は陶磁器組合や行政当局でも把握できないほどだ。
鬼才・加守田章二が益子に開窯し、用途性を越えて表現性を求める陶芸をめざして脚光を浴びたのもこの頃(1958年)だ。加守田の出現によって益子にはさらに自由な空気が生まれ、益子焼きは次第に民芸から現代工芸へその重心を移していく。大宮司道子はその加守田章二に師事した
。
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「住〈すまう〉」
―叩けよさらば開かれん―
1996年制作
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親との約束で、学校の教員を8年だけやったことがあるのだと、悪戯っぽく大宮司道子は語る。
「小学校と中学校。小学校はオールマイティ。中学校は美術担当。先生ってのはくたびれるんですよ。子供がきゃあきゃあ言ってネ。ほら、私はいい先生だったからフフフ・・・(笑)。子供たちとサッカーやったりして外で遊び回ってたし。子供たちもかわいかったからネ。でも、くたくたで体が「スト」を起こしてしまうので、もう専門職を、と思ってたとき中学の美術の先生になったの」
そこで県の美術展などに生徒を入選させたりしていたが、入選させるための指導に疑問を持ち、やめたという。調子に乗っていた、と素直に語る。
「だから学校の教員なんて長くやっているもんじゃないと。そろそろ足を洗わなきゃと、それで焼き物に入ったのよ」
益子に窯を開いたのが今から約42年前のことだった。
「早いものですね。つい此の間のように思えるのに」と彼女は言う。
「親との約束は一応果たしたから、自分の勝手なことを始めたわけだ」
まずは商売としての焼き物をしていたのか、という質問をすると、さあねえ、と少しの間、宙をみつめた。
「商売を意識して作ったことはあまりないね。亭主がね、好きなものをやっていたから、私も逃げないで好きなものをやったの。だから生活は大変だったですよ。ただ、親からの多少の援助もあったしね。あの頃はね、抹茶茶碗なんか作ったりすれば東京あたりの骨董屋が来て、登窯ひと窯買っていったんですよ。その窯一つ焼いて売れば、一年くらいは生活できたんですよ。今はそんなことはないけど。でもね、用に使う器は売れるから生活の基盤にはなるけど、それだけじゃ、なんのために自分が土を素材として創作を志したか、わからないから、人生の感じるままをテーマに土をいじっているのョ」
若い頃、脚・腰を痛めてからは轆轤(ろくろ)を回せなくなった。だが、それも彼女にはハンデとはならない。逆境を逆境と感じない、そういう強さが大宮司道子を大宮司道子たらしめているのかもしれない。
「おかげで轆轤(ろくろ)を使わなくなったので、手びねりでもって前衛的なものができるわけネ。今、自分ではオブジェをやっているのが面白いし、無限なのよね」
美術用語のオブジェとはもともと、主題に対して、日常的合理的意識を破壊する物体のあり方である。陶芸でのオブジェという言葉の使い方は、器の用を果たさない、というような意味が多いが、大宮司道子のいうオブジェとはもっと大らかで、根源的なもののように感じられる。
「ある意味では遊んでいるように思われるかもしれないけれど。自分のテーマを素材と相談しながら創るのネ。これは料理のこういうの、これはこういうときに使う、そうやって目的によって作るのもいいんだけども、自分でどんな風なものをこんどやろうかなって、考えながらやれるからねえ。それが楽しいね」
器としての機能をきちんと備えながらも、その中で芸術性を追求する陶芸家たちもいる。だが、どうも彼女はそういう枠には収まらないようだ。好き勝手をやっている、といってもいい。だがその好き勝手の中には、彼女なりの確固とした何かがあるのだ。自分の依って立つべき場所をちゃんと、大宮司道子はもっている。
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数ある焼き物の里の中で、益子の地で窯を持っているということが作品に影響する部分はあるのだろうか。 益子を選んだ理由を聞くと、こう答えた。
「益子が近かったから。そして女性が陶芸という分野に足を踏み入れたのも初めてだったので、大いに女性の分野を開拓したかったのネ。それとココはどんどん新しいことを始めても寛容だからね」
昔のことを思い出したのか、笑う。
「なかには女性がしてる仕事じゃない、という人もいたわね。女性が作るのは日常雑器という先入観があって、その点では私は羽目をはずしてるのね」
たしかに大宮司道子の作品には女性のかぼそさがない。だが、よく見るといろいろな部分にきめ細やかな部分がある。どーんと、体当たりをしてくるような迫力の中にも、見えない部分に女性らしい感覚が溢れている。
「住む土地柄はね、益子を逃げ出してもっと違うところにいったら、もっと違うふうになったかもしれない。違う境遇で思えることがあるかもしれない。昔はそこの土地でそこの土が採れるから、輸送が困難だったから、自分がその土地に住み込んで、使うということだったの。今は東京でビルの屋上にいたって宅急便で土が届く時代。作るという操作部分だけではなくて、何をつくるか、どう作るかということになると、ある程度は住まう、住むという環境が左右すると思うのね。のんびりした所でやってると、のんびりした形になるかもしれないしね。東京の真ん中だったらもっとピッチあげてやってるかもしれないしね。いいか悪いかわからないけどね。自分が好みでそこに入ると、それが自分なのよ。でも何処かで遠くの地を夢見てるの」 |
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以前、裏手に大きな登窯をかまえていたが、現在は細かい温度調節が可能な小さな窯を使っている。ここで大宮司通子の作品に命が与えられる。
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焼き物は炎との闘いでもある。焼成温度、時間、湿度など化学的、物理的なさまざまな条件が変化を与える。人間がそれを完璧にコントロールすることは難しい。だが、そこにこそ面白味があり、尽きぬ魅力もあるのだろう。
「窯っていうのは微妙な変化があってね」
同じ窯の中でも火がよく入る所と、入りにくい所があるという。
「よく焼けないところは二度焼きしてね。違う場所に入れて焼けば、もっと面白い雰囲気がでるの。釉薬は二度かけられないけどね。面白くないからもう一回焼き直してみるってことはできるの。偶然性もあるしね。いろんな要素がはいってる。科学的なものだけでは割り切れない部分もあるし、総体的には思い入れの部分が大きいから」
窯の中を覗き、火を眺めるのは格別だ。炎の美しさは、温度によって変わっていく。
「きれいなんだよね。あのね、始めのうちは黒っぽい赤さなの。だんだん温度が上がると、透明で太陽みたくなるの。温度をね、10度上げるのが大変なのよ。1270度から1280度に上げる、その10度が大変。でもその10度で違うのよね」
窯の中の火は、冷めるとオレンジ色が増し、だんだんと赤味がさしてくる。そして黒っぽくなりはじめると、チンチキチンチキと軽やかな音がかすかに聞こえ始める。これが細かい貫入でこの時、急激に冷ますと表面にパチンと大きくヒビが入ることがあるという。これが大きな貫入だ。素地と釉薬の収縮率の違いから亀裂が生じるのである。この貫入が焼き物に味わいを生むのだが、それは人間には計算できない部分だ。
窯の種類によっては、何日も火を焚き続けなくてはならない。温度調節が可能な電気窯や灯油窯は数時間から1日ですむが、台地の斜面を利用して築かれる連房式の巨大な登窯になると、数日間、火と向かい合わなければならない。気力、体力ともに必要だ。
「何日もね、火をずっと見てなくちゃならないのよ」
火をずっと見ているというのはどういう気分なのだろう。そう尋ねると、笑われた。
「フフ・・・眠くなるのよ。夜中じゅう目が冴えているけど朝方ちょっと寝たいなぁ、頭がボーっとしてくる。合間を見て横になるとグーっと30分くらい。これを4・5回繰り返す。でもね焼き上がりがどんなになるか、楽しさと不安が同居しているのね。結局開けてみないとわかんないんですよ、どうなっているか。その時というのはいろいろな童話が生まれたり、古代人が出てきたり、お祭り、音楽、友人のこと・・・etc。そして自分を見つめている自分がいたり。別世界が入り込んで楽しめる時間でもあるのよ。でもね、火に向かう、その時間ていうのはいつでも独特なんだよね」。 |
掲載されている作品について
「これは自分の人生。だんだん成人して、だんだん下がりつつある、でもそのまま下がっていかないぞと、ちょっとまた首を持ち上げて、それが一つの人生なの」
浮き沈みの多い人生を、皿状に焼いた板と、善行悪行を表す玉をうねるように積み重ねて表現しているという。時間と行為の連続した総体を表した、思索的な作品である。
「この台は鉄なの。鉄骨屋で切ってもらって、ガスバーナーで全部焼いて。蚕(カイコ)の繭でこすったんですよ」
大宮司道子のもつ表現方法はさまざまだ。伝統的な陶芸の手法に縛られたりはしない。陶芸も表現するための手段のひとつに過ぎない。だから焼き上がったものをさらに加工することもあるという。
「どっちかというと、木と金属とか、そういうのとドッキングさせたりするのも好きなの。焼き物だから焼きじゃなくちゃいけないなんて、そんなことはまったく考えていない。素材はむしろ自由なの。陶器も素材なの。だから木も面白いのを集めてあるの。裏の山で木を切ったりしてると、犬がかじったりしてね、こんなのを面白くて採ってあるの。それでこういうふうなものに粘土を合体させたりしてね、色を塗ったり、組み込んだりね、こういう遊びの部分が大切でね、まあ、ワンコもだてに遊んでるんじゃないと、いいものを残してくれるな、と」
ようするに、楽しんでいるのだ。
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「の・び・る」
2001年制作
窯のある庭の木々の中に並べてみた。
土の色が緑に映え生きてくる。
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「最近はね、円錐形をたくさん作って、それを放射状に並べてね」
円錐形が伸びた、筍のような、不思議な焼き物を持ち出してきて、そう言う。有機物のような生物っぽい質感と、独特な色調が面白い。
「グループで、ワークショップみたいなところで作ったの。これが40本くらいあってね」
数本、庭に持ち出して並べてみる。意外に重いのは、中が芯まで詰まっているからだ。木の下に配置すると、まるで地面から生えてきているような不思議な光景になった。グループで仕上げた時には「萌」というタイトルになったという。だが、そのタイトルには不満がありそうだ。
「ニョキニョキと伸びてるよね。天に向かって伸びてるの。植物がたんに芽生えてるような、それだけじゃなくてね。自分の意志で天に向かう、天に伸びていく、そういう意味をもたせたいのよね」 |
益子の雑木林に日が傾く頃、最後に今後の予定を聞いてみた。
「予定? そうね、10月に守谷市のガラティアと日立市の伊セ甚百貨店で個展。来年は銀座望月画廊で洋画の岡田節子先生を囲むグループ展。あと鎌倉のギャラリー陶悦で個展。あと県内でグループ展、公募展等々結構忙しいのネ」
テーマはもうあるのだろうか。
「いろいろあるけど、今のところは、もうちょっと宇宙に広がったような形のものをやっていきたいと思ってるの。それをどんな風に表現していくかは、これから整理していかなきゃいけないけどね」
大宮司道子の視点は天に向かっている。その先には、回転する大宇宙が見えているのだろう。
「天体がたくさんあるじゃない。そういう星の美しさ、そういうふうなものをテーマにしたものをね。あとは人生の屈折とかさ。結局、地球上でこの宇宙に生かされている小さな動物でしかないんだよね、人間なんて。その立場から宇宙空間を見たら無限なんだよね。その無限の中で人生の起伏なんてなんてことのない起伏なんだ。だけどそれを自分に置き換えてみれば、世の中を制圧するくらいの大きな問題でもあるわけよね。宇宙の空間の広さと、自分の今のつまずきとか、喜びとか、そういうふうなものもいったりきたりするというか、そういう中でも大きくなったり小さくなったりする、いわゆる鉱物も、生物も、動物も、、すべてが生きてるというか、一体感ていうか、宇宙のね。そういうものを表現したいの。でもどこから切り込んでいこうかなと」
切り口について悩む。いまだに悩む。しかし、そういった悩みこそが彼女を進化させ続けたのだろう。途方もないエネルギーで悩み、創造し、破壊し、再び創造する。
作家・立松和平が大宮司道子について評した、この言葉こそ彼女そのものといえる。
「繊細であると同時に粗野であり、細心であると同時に大胆であり、剛直であると同時に華麗である」
相克する二つの存在。創造と破壊という、まるで大宇宙のサイクルそのものだ。それが大宮司道子を大宮司道子たらしめ、次なる創造に向かわせているのだろう。
大宮司道子について、立松和平は最後にこうまとめる。
「何故なら、彼女は自分自身の模倣をしないからである。
創造とはどういうことなのかを、いつも大宮司道子は教えてくれる」
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大宮司道子 プロフィール
「大宮司道子は大宮司道子としての完成を拒む。
それが彼女の人生なのである」
(立松和平)
1933 東京に生まれる。
1955 女子美術大学卒業
1965 加守田章二氏、大宮司崇人氏に師事
1967 栃木県芸術祭に初出品 入選
1968 伝統工芸春季展に初出品 入選
1972 北関東展 陶芸部門にて入賞
1973 女流陶芸会員となる
1982 スウェーデンOSTASIATISUKA国立美術館にて友好親善展
1987 フランス「マルジス賞」受賞
1989 IN EXCELLENT NEWYORK グランプリ賞 受賞
1990 TOKYO ART EXPO 出品
パレ・デ・コングレ TOP ART賞 受賞
芸術公論 EXCELLENT ARTIST AWARD グランプリ賞 受賞
平成美術大賞 最優秀賞 受賞
1994 ART GRAPH ウォレンテ・パイテル大賞 受賞
芸術公論海外展「美の足跡」国際芸術大賞 受賞
1995 芸術公論 現代日本を代表する作家18人(彫刻・工芸・陶芸)に選出
1997 スペインセビリア市文化教育功労賞 受賞
2001 女流陶芸会退会
その他、グループ展、個展等で国内海外を問わず精力的に活動。
今後も、画廊でのグループ展や県内での個展などを予定している。
これからも彼女は大宮司道子を追求し続ける。 |
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