|
|
国会議事堂の壁紙ってどうなっているか知っていますか?
国会議事堂の壁紙にも使われていた『金唐紙』のルーツは、15世紀にスペインで始まり、18世紀までの四百年間、ヨーロッパを中心にして生産された壁面装飾用の革製の壁装飾材。
主に宮殿や城塞の壁を飾ったこれらの革壁は、当時の日蘭貿易の産物としてはるかオランダから、『金唐革』として日本へも入ってきた。そしてこの動物の皮を使った金唐革を日本の伝統工芸の技で和紙へと置き換えたのが『金唐紙』。壁装材として現代の壁紙のルーツともいえるこの『金唐革』『金唐紙』について、日本で唯一の『金唐革』のコレクションをされている株式会社義輝の白濱会長にお話を伺った。 |
|
金唐革という言葉はあまり聞き慣れないと思いますが、ヨーロッパの宮殿や邸宅の壁を飾った壁面装飾用の“革壁”のことになります。17世紀の半ばにはすでにオランダから日本にも入ってきていたらしく、当時は金革とか、金唐皮などとも呼ばれていました。歌舞伎の「斬られ与三郎」のセリフにも「金唐革の煙草入れと煙管差し」という言葉が出てきますし、元禄期の「万宝全書」という文献にもすでに金革、金唐皮が登場しています。
さて、この革壁は、ヨーロッパのウォール・ハンギング、つまり壁掛けが発展したものです。ウォール・ハンギングはもともと室内装飾用というよりも、住居の保温や防音・防湿、間仕切りなどに用いられていました。最初はおそらく動物の毛皮がそのまま使われていたと思います。それから織物になり、だんだんと住空間を彩るものへと変化していきました。中世の末期まではまだ本当の意味での壁掛け、つまり取り外し可能なタピスリー(タペストリー)が中心で、ルネッサンス期になって初めて壁に貼り込んでしまう形の装飾革が作られるようになったんです。これが革になった理由は、綴織りのタピスリー(タペストリー)はあまり掃除ができないので、虫が付いてしまうからです。南京虫やシラミ、ダニの巣になってしまいます。 そこで、体によくないということで、革になりました。
革壁は金属の箔を使いコーティングしてあります。型くずれもしにくいうえに色もあまり変化しません。作り方は、革に銀色の金属箔を貼り、文様をプレスして、さらに金色に見せかけるための黄色ワニスを塗ります。後期になると、これにさらに彩色したものも出てきます。色は基本的にすべて鉱物系の顔料を使っていました。箔は銀がほとんどですけど、稀に金箔を使用している場合があります。また文様はバロック建築の空間を彩るのに都合いいように、どこで使われても、どこで切断されてもまとまるようなデザインが主流になりました。この考え方は現代の壁紙のデザインにも受け継がれています。
素材は主に子牛です。他にも成牛や山羊というのもあったのですが、子牛が一番加工しやすいんですね。成牛だとなめしても、なかなか柔らかくならない。必然的に子牛の皮ということになりますから、1枚1枚はそんなに大きいものじゃありません。だいたい横65センチ×縦75センチぐらいがそのサイズです。大きな建築空間の内装を仕上げるためには、一つのパターンを単位とし、接ぎ合わせて何枚もリピートし繰り返し文様として使用したんです。
|
|
|
スペイン・コルドバ製(15世紀)
所蔵しているものの中では最古の作品。この頃の作品はまだエンボスが浅い。
|
革細工自体ですが、九世紀頃に、北アフリカ(現在のリビア)で革に柄を出す、ということが始まったそうです。 金装飾した革の起源はスペインといわれていますが、少し遡って北アフリカのガダメスともいわれます。スペインではこういう革をガダメシスと呼んでいますし、他の国ではスパニッシュ・レザーあるいはギルト・レザーなどと呼んでいます。もっとも、そのすべてが金唐革という定義に対応するものではありませんが。
当時、北アフリカのガダメスはムーア人の居留地で、イベリア半島のスペイン人と頻繁に戦争をしていました。当時の戦争というのは、ある意味では文化の交流に一役買っていまして、アフリカの文化がイベリア半島に、またヨーロッパの文化がアフリカに伝わります。最終的にはイベリア半島側が勝利を収めたんですが、その際にガダメスの革職人をスペインに連れてきたんですね。この時にガダメスの職人たちを連れていった先が、スペインのコルドバという町です。コルドバには15世紀のガダメシス職人の資格とかギルドの規定なんかが記録として残されています。で、その後、技術をすべて修得したコルドバは、ムーア人の革職人をすべて追放しました。その職人たちがイタリーやフランス、それからオランダ、イギリス、ドイツなど、ヨーロッパ中に散っていき、そうして金装飾した革の技術がヨーロッパ中に普及していったのですね。
|
|
|
オランダ製(17世紀)
ジャコブ・ドゥ・スメルトとともにエンボスの深い金唐革を創り始めたハンス・ル・メールの作品。
|
|
ハンス・ル・メールの作品の拡大写真。エンボスが初期の頃より深いものになっている。
|
金唐革の製作が一番盛んだったのは17世紀です。とくにオランダです。オランダでハンス・ル・メールという職人と、ジャコブ・ドゥ・スワルトという職人がいたんですが、この二人が共同で経営する工場でエンボスの深い金唐革を作り始めたんです。ジャコブ・ドゥ・スワルトの方が金色の物を作る技術とエンボスの技術を開発し、ハンス・ル・メールの方がそれを実際に職人として製作したようです。今もスウェーデンにあるお城には作品が残っていますけれども、これが当時の売れ筋になりましてね。で、メーカーも職人もオランダには揃っていたので、オランダが金唐革の製作でトップに立ちました。東インド会社による繁栄と富ということもありますが、他のヨーロッパ諸国では王侯貴族や教会のものでしかなかった革壁が、商人たちの市民生活に定着したほどです。ですから現在、金唐革が残っているのはほとんどオランダです。当時革が足りなくて、フランスと年間契約し、毎年2万2千枚も買い取って作っていたそうです。まあ、オランダといっても地理的には今でいうベルギーまでも含みますけど。 16、17、18世紀には、今のベルギーという国はまだなかったですからね。北オランダ、南オランダというように呼んでいたんですね。コートウェイやブルージュ、あのあたりに工場がありました。今でもブルージュという町はあります。
|
|
|
オランダ製(18世紀)
今のベルギーあたりのもの。黄色ワニスの上にさらに彩色されている。
|
|
|
そしてこの革壁の製作はナポレオン革命のころに終末を迎えるんですね。ヨーロッパでの金唐革の歴史は14世紀からの約4百年間ということになります。
最初にもいいましたが、金唐革は17世紀の半ばにはすでにオランダから日本にも入っていました。「徳川実紀」の 寛永二年(1662)の条に「入貢の蘭 御覧あり。貢物は猩々緋緋一種。・・・金唐革十枚」とあります。それが記録に残っている最初ですね。長崎の出島で、オランダの東インド会社が、日本に献上したり売ったりしたんです。
当時、長崎からインド洋、南アフリカの喜望峰を経てオランダにいたる海洋行路がありまして、これをシルク・ロードになぞらえて陶磁の道(セラミック・ロード)と呼んでいますが、伊万里焼などの日本磁器をオランダへ運ぶ道だったわけです。これがそれと同時にオランダから金唐革を日本へ運ぶ道にもなっていたんですね。幕府などへの献上品だったわけです。
ところが、献上された金唐革をどう使えばいいのか、環境が違いすぎて日本じゃ使い方がわからない。西洋の城のように石壁であればともかく、壁面装飾という発想が生まれないんです。そこで考えたのが、一枚の金唐革を裁断して、煙草入れや高枕、それから刀の鞘、馬の鞍や鐙、薬籠などの装飾用品として使ったんですね。そういう小物に加工されたものが日本ではまだ残っています。たとえば名古屋の徳川博物館にはかなり献上品として収めてあります。一枚ものの革としてではなく、加工したものとして残ってる。日本ではそういう形で残っているんですね。
|
|
|
姫路革のハンドバッグ。日本へ入ってきた金唐革の技術が生んだ遺産の一つ。
|
天明年間(1781〜1789)には「お軽のかんざし 金唐革の煙草入れ」なんていう早口言葉も流行りまして、腰差し煙草入れ、根付け堤げ、小物入れなどに姿を変えて、庶民生活の中にも浸透し始めています。遊廓へ遊びに行くのに洒落た小物のひとつでも欲しいということで、金唐革の煙草入れなどはかなり人気があったのではないでしょうか。で、この革の技術を日本でもなんとか模倣できないかと始めて、その技術が唯一残っているのが姫路です。姫路革といいますが、現在ではほとんどハンドバッグに加工されています。紋様は押し型でつけています。金唐革が長崎から入ってきた、遺産の一つですね
。
さて、今までお話ししてきたのはいわゆる革製の金唐革の話です。ですけれども、金唐革というのは革製のものと紙製のものとあるんですね。擬革紙、と呼ばれているものです。どちらも"きんからかわ"と呼ばれているので話はややこしいのですが。
この紙の金唐革が作られ始めたいきさつですが、いろいろと面白い話があります。江戸時代の娯楽の一つとして、お伊勢参りというものがあります。伊勢神宮に参拝にいくわけです。これが江戸時代の人たちにはかなりのイベントになっていました、みな、一所懸命お金をためて伊勢までお参りにいくことが大変な喜びだったわけですね。で、その時に煙草入れと煙管差しを持つわけですけど、当時の考え方として、神社に不浄のものをもっていけなかった。不浄のものというのは、動物の皮を使ったものですね。そういう考え方があったわけなんです。 だから金唐革でできた煙草入れや煙管差しを神社に持っていくことが一時禁止になったんですよ。そこで伊勢の近くにある和紙屋さんが、革ではなくて、和紙で煙管差しと煙草入れを作ったんです。これは太田蜀山人が「夕立ちや伊勢のいなぎの煙草入、ふるなる光る強いかみなり」と詠んでいるように参宮の土産物として知られるようになりました。
|
|
|
金唐革の煙草入れ。日本では一枚の金唐革を裁断して、さまざまに加工した。
|
|
|
さらにかの平賀源内も紙を使った金唐革の模倣を試みています。平賀源内という人は土用の丑の日を考案したという話もある、非常に独創的な人です。彼が作った金唐革というのは、紙を地にして、文様は浮世絵の空摺りの技法を使用し、漆仕立てにしたものだったらしいです。ただこの金唐革は湿気にとても弱いものだったらしく、最終的には失敗したようです。郷里の妹宛に出した手紙の中で「当年は金唐革並に下屋敷にて路方万々心当に致し候処、雨天続、革も一向出来不申・・・」となげいていますから。下地の糊が雨が続いて乾かなかったことが失敗の原因だったようです。
まあ、こんなふうに金唐革は大名や商人、文化人の間に広まっていったのですが、これが一般庶民の中に深く浸透するようになったのは明治期になってからのことでした
。
|
擬革紙の製造が盛んになるのは明治に入ってからですね。革というのはやはり高価ですから、それで紙に移っていったんです。紙で革と同じ表現をしようと、いろいろ模索したわけです。幕末期の江戸で煙草入れの擬革紙作りとして著名だったのは「竹屋」ですが、天明年間に江戸橋で山本清蔵という人が始めました。竹屋は煙草入れのための擬革紙作りから、敷物用の擬毯紙作りに進んで、明治十年の第一回内国勧業博覧会の出品解説によると、「各種の金革に擬製し、之を壁用紙と名づくと云ふ」と記されていて、ついに本来の用途であった壁装用としての金唐革が作られるようになったことがわかります。こうして金唐革紙は、擬革紙作りの技術を基盤として発展していったのですね。
竹屋が金唐革紙の製造を始めたのはおそらく明治五年(1782)くらいからだと思われます。翌年にはウィーンの万国博に出品して、かなりの好評を得たようです。すでにヨーロッパでも壁装用の金唐紙は作られなくなっていまして、エンボスの壁紙は存在していたんですが、竹屋のものは紙質がすぐれていたんですね。こうして金唐革紙はヨーロッパへの輸出品として成長していったんです。ただ、産業が成長するにつれて質の良くない製品や業者が出回りはじめたんですね。そこで当時の大蔵省の印刷局が輸出擬革紙の改良を試みました。これが非常にうまくいきまして、明治十八年刊の大蔵省記録局編「貿易備考」によると、パリでは手紙や名詞などに日本紙を用いることが流行し、ヨーロッパでの日本紙愛好者が増えていることが記されています。その後、興産ということで、民間に技術を払い下げました。
それが山路良三の壁紙製造所です。山路良三という人はもともと大蔵省印刷局(現在の財務省印刷局)の壁紙製造主任すなわち色科科長だった人で、明治二十三年に大蔵省から払い下げをうけて創業しています。
|
|
|
パリ万博でグランプリを獲得する堀木金唐紙製作所の様子。
|
|
|
|
山田製作所の金唐革紙。約100年前にヨーロッパへと輸出されたもの。ロールの耳に“大日本山田製”の銘が入っている。
|
その他にも壁紙製造所は増えていまして、関義城の著した「江戸東京紙漉史考」によると明治三十一年にはすでに国内には大小ふくめて十五もの工場があったそうです。その中の堀木金唐紙製作所というところが明治三十三年(1900)パリ万博でグランプリをとったんです。イミテーション・レザー・ペーパー・ワークスということで。
そのグランプリをとったもの自体ではないのですが、同時期に存在していた山田製作所の実物が写真のものになります。ロールの耳の部分に大日本山田製という銘が片押しで入っているのがわかります。当時のものが断片ではなくてロールで残っているというのは大変珍しいことでしてね、海外で見つけて逆輸入されたものなんです。百年前に作って輸出されたやつがまた戻ってきたんですよ。もうどこにもないですね、他には。A4版だとか、財布に使ってあるとか、そういうものはありますが、未使用のロールで残っているのはありません。文様の彫刻原版、プリントロールは桜材です。桜の木は加工しやすいし、丈夫なんですね。
山路良三の壁紙製造所もその後、明治四十三年(1910)にはロンドン日英博覧会、大正四年(1915)のサンフランシスコ万博などで受賞しています。その価値はロンドンのバッキンガム宮殿の一室に使用されたことでもわかると思います。ねばり強い厚手の和紙、桜材の彫刻ロール、すぐれた耐水剤である漆、こういう日本独特の素材を精巧な手作業によって、芸術的調和をかもすところに国産金唐革紙の特徴があったんです。明治三十二年にフランスから美術教育視察のために来日したレガメは、その「レガメ日本素描紀行」の中で「日本の芸術的産業」とまで云っています。西洋のものの模倣から出発しながら、きわめて日本らしい味わいのあるものだったからこそ、 日本の金唐革紙というのはとても高い国際的評価を得ていたんですね。
|
|
|
20世紀半ばまでベルギーUPL社で製作されていた“金唐紙の末裔”。
|
|
裏面にUPL社の社名が印字されている。20数年前まで日本で実際に販売されていた。
|
そもそも私が金唐革を初めて見たのはドイツのカッセルの博物館です。それからひょんなところから金唐革を手に入れまして、そこから趣味で収集を始めたんですね。我々は壁紙の業界にいるんだから、こういう壁紙のルーツともいうべきものは大事にしたいと考えたんです。
残っている金唐革は、日本もそうですけど、海外でもあまりいい状態にはないですね。日本では湿気が大敵ですけど、向こうでは昔は薪を焚いてましたから。ベルギーを中心にして、実際に今でも金唐革を貼ってありますよ。ドイツの大きなお城とかね。それからベルギーのアントワープにルーベンスハウスといって、ベルギーのルーベンスという画家ですが、あの大邸宅にその部屋全部に金唐革が貼ってあります。ところが手入れが悪くてね。薪をどんどん焚いてあるから、ひどい状態ですよ。一般公開してますけどね。
この壁紙の歴史というのはヨーロッパからきています。それを500年という歴史の遺産を今、日本でビニールという形で、我々はちょうだいしているわけです。私はそういう考え方なんですよ。
ビニールというのは表現力もあり、コストパフォーマンスもいい。まあ、最初始まったのはゴブラン織りの、ああいう、防寒と装飾のために壁に貼っていたけど、虫がつくなどの弊害で、革製になったらいいものができたと。常に進歩というか、室内を飾る夢というか、どうやったら夢のある生活になるかという、これは現代の生活と直結している話だと私は思います。それが昔は高価な物だから城とか豪商の家だとか、そういう所でしか使っていませんが、今はそれが一般家庭まで浸透してきたわけです。要するに歴史というものがあって、先人が努力したものを今、我々が謳歌しているわけです。その遺産をもらって生活をしていると。だとしたら、今度は我々が未来へつなぐ番にならなくちゃいけない。
今現在、日本の壁紙は質よりも価格の方向にひっぱられていると私は感じています。たしかに価格が安いということも必要でしょう。しかし、いろんな用途が壁紙にはあるわけです。だからもっと趣味・嗜好や色・柄にこだわった壁紙を作ってほしいし、こういう産業がもっと伸びていってほしいと思います。そしてそのためには、ひとつは歴史を大切にして、資料や見本をきちんと残すことです。
たとえば自動車であればトヨタさんあたりはきちんと自動車について博物館を作っている。自分のところのものだけではなくて、きちんと文化的な意味合いをもったものとしてやっています。壁紙にしても同じですよ。まず資料がちりぢりばらばらになるのを避けるということ。たとえば国会議事堂の中には紙の金唐革を壁紙として張ってある部屋がまだ2〜3あります。そういうものを少しずつでも修復して、なるべく古いものを後世に残していく努力をする。そして我々がたずさわっている壁紙のルーツ、歴史というものを一般の人に対して知らせて理解をしてもらう、これが大切なんですよ。そういったことをふまえていけば、おのずから未来というものは見えてくると思います。過去と現在とそして未来と、すべてはつながっているんだと、そう私は考えています
。
|
白濱輝雄(シラハマテルオ)
株式会社義輝 会長
昭和5年12月12日生まれ
東京都出身
昭和26年東京外国語大学ポルトガル語科卒
三菱商事系の商社に勤務後、ブラジルへ渡り3年後に帰国。
昭和29年壁装材料の輸出入業を開業。
昭和41年株式会社義輝に改
平成12年一線を退き会長へ
趣味ゴルフ(かなり好き)
|
|
|