|
|
東京都・江東区住吉の閑静な住宅街にある「いちご亭」は、喫茶室も兼ねた人気のパティスリー。店のお客の8割以上が女性客だ。地元のお客さんのみならず、わざわざ電車に乗って遠方からケーキを買いに来るファンがいるという人気店である。 ショーケースには定番品から季節のケーキまで、常時25種類以上の菓子が並ぶ。どれも過剰な派手さはないが、バランスのしっかりした正統派のケーキだ。
「1番おいしいものを、お客さんに出したい。それが99パーセント」というのは「いちご亭」オーナーシェフ・田村 實さん。
菓子作りを通して、モノを作るとはどういうことなのかを、田村さんにじっくりと伺った。 |
|
僕は今年55歳で、いわゆる団塊の世代です。出身は茨城県の古河というところで、そこで高校まで過ごしました。寺町なのですが、自然が比較的豊かで、町の西側を流れる渡良瀬川で泳いだり、釣りをしたり、田圃に入ったり、そういう所で遊んでいたんです。川魚料理があるということで、老舗といわれるような料亭が多かったです。 一種の川の恩恵を受けた文化ですね。ただ、時代が時代でしたから、全体がまだ貧乏ということもあり、おやつは焼き芋とか、それが嫌ならもう何もない、というような生活でしたね。うまいものが食べたいなあ、と、小さい頃からずっと思っていました。おかげでおいしいものを作りたい、という気持ちが高じて、それを仕事にしたんです(笑)。
最初はパン屋になろうと思っていたんです。叔父が板橋でパン屋を開いていまして、そこで5年やって、その間にお菓子もいろいろ見せてもらいました。その頃、六本木クローバーというケーキ屋さんで(日本におけるチーズケーキの草分け的な有名ケーキ店)、そこで弟がボーイとして働いていたのですが、遊びに行った時に「これが売れているんだよね」と言われて、チーズケーキというものを生まれて初めて見せられました。今と違って、チーズそのものがまだほとんどない時代ですよ。6Pチーズくらいしかない。それでそのチーズケーキなるものを食べてみたのですが、世の中にこんなおいしいものがあるのか、と衝撃を受けましたね。それが20歳ちょっとくらいの時です。いい意味でショックを受けて、もうパン屋はやめて、ケーキ屋になろうと。今でこそチーズケーキはどこでも食べることができますが、僕らの若い頃は、ほんとのチーズケーキなんてほとんどありませんでしたから。自分の味覚が未熟であったということもありますが、日本じゃないんですね、当時の僕にとっては。こんなおいしいものが世の中に存在することが信じられなかった。それで叔父のパン屋をやめて、クローバーに入ったんです。今思えばあれが分岐点で、チーズケーキがすべてを変えてしまったということです。
クローバーでは2年半修業をしました。時間的には短かったのですが、若くて、一番やる気があって、なんでも吸収していける時期。パン屋で学んだことは知識の裏付けになっていても、技術の裏付けにはなっていなかったので、そういう意味での焦りもあって、一生懸命やりましたね。幸い、先輩にも恵まれて、いろいろ勉強になりました。そのあと3、4カ所お店を変わって、今の店を構える前には上野の喫茶店でケーキとベーカリーをまかされていました。
|
今、うちの店で出しているケーキは、常時25種類くらいです。そのうち半分くらいが定番で、あとは季節によって変えたりしています。たとえば冬にはリンゴを使っていますが、春になるとどうしても手に入らなくなったり、使えるようなものがなくなってしまう。缶詰を使えばいいのでしょうが、リンゴに関しては僕は生のものを使いたいので、一年のうち半分しか出せないですね。それと夏場になると、やっぱりチョコレートは重い。一般論になりますが、売れなくなるんです。だからかわりにムースやゼリーのようなものに変えています。 |
|
|
|
自慢のチーズケーキや定番品以外にも、季節のフルーツを使用したケーキなど、品揃えは常時25種以上。
|
うちくらいの規模のお店だと、25種というのは多くはないですよ。10種類くらいしかないとお客さんにとって、ちょっと選ぶのが難しいかなと。最低20種類はないと楽しく選べないと思います。25種あって、その中で新しく試作したものを必ず1つ出して、1つ引っ込めていく。人気が出たものは定番にしてという、そのあたりは戦略としてやっています。もっとシビアなお店だと、毎月必ず2個は新作を出して、そうすると1年間で24個新作の菓子が出る。そうすると月に1回来るお客さんには、いつも新しいものがあるという印象を与えることができるんですが、そこまではやっていません。
というのは菓子作りというのは各工程で、やることが本当に多いんです。それに土台になるスポンジにしても、ショートケーキ用であれば、ショートケーキにしか使えません。使い回しできるものもありますが、せいぜい2種類までにしか使いません。使い回しをすると、何を食べても結局同じ、と言われてしまうんですね。ですから同じように見えたとしても、薄く焼いたり、配合を変えたり、実際には違うものに仕上げてあるんです。
簡単に仕事をしようとすれば、簡単にできるんです。1つのものを使って、3種類も4種類も作れば仕事は楽なんですよ。でも僕にとって、それじゃ意味がないんです。
|
日本の洋菓子というのは、比率的に考えると、やはりフランス菓子の影響が強いと思います。食材の輸入会社にもフランスとつながりが強い会社がありますし、そこが講習会とかをやるので、どうしてもフランスの影響が強くなる。歴史も長いし、レベルも高い。 |
|
|
|
フルーツケーキやフィナンシェなど、かわいいラッピングが施された焼き菓子も店頭に並ぶ。他にもトリュフやオレンジピールなど、チョコレートも人気の品だ。
|
だから昔の日本では使えなかった材料が、今は簡単に手に入ります。それは日本人が努力して、いい材料が欲しい、いいものを使っておいしいものを作りたいという姿勢が、この状態を作ったんです。たとえばフルーツピューレ。カシスやフランボアーズ、ブルーベリーなんて、昔はまったく手に入りませんでした。大昔は洋菓子協会などがフランスの有名パティシエを招いて講習会を開き、その時に向こうにしかない材料を持ってきて、結局その繰り返しがあって、今があるんです。だから僕らの世代が若い頃に習ってきたお菓子と、今のお菓子はぜんぜん違う。今でも有名なパティシエというのは毎年来ているし、それを日本人は一生懸命に吸収しています。だから向こうの人も日本人はある程度凄いと認めてくれますし、最近ではコンテストでもヨーロッパに行って勝ったりしています。
ただ、今の洋菓子の技術というものは、和菓子に負うところも非常に大きいと思います。材料の使い方ではなくて、表現力。和菓子の伝統が持っている潜在力が基礎になっている部分がかなりある、僕はそう思います。 |
|
|
ショーケースの中には個性的なケーキがズラリ。ショートケーキなどスタンダードなものは常時置くようにしているが、日によっては午前中でケースの中が空になってしまうほど。
|
|
スーパーで売っている、工場で作ったようなケーキがありますけども、僕の感覚だとあれは工業製品なんですよね。食品なんですが、工業製品。衛生管理もきちんとして、大量に同じ品質のものを作れるし、コストパフォーマンスも良い。ただ、手作りのものとはぜんぜん違うものなんですね。 値段も違うし、中身も違うし、使っている材料も違うし。それはそれなりに突き詰めた究極のものなんですよね。僕らだと、多分驚くような材料も使ってると思います。それでも品物にしてしまうというのは、たいした技術です。ただ、僕たちが同じ土俵に上がる必要はないと思いますね。食べる方の動機も違います。たとえば子供が3人いて、毎日プリンを食べさせたいと考えると、3個で200円の商品がいいわけです。うちは1個で250円。その値段は崩せない。効率だけで考えると、勝負にならないんです。でも僕らは手作りで、卵もその日の調子を見ながら作る。地卵で黄身を多めに使ってますので、食べた時にトロリとしているし、牛乳も厳選して使う。同じものではないんです。
僕の知人で、八ヶ岳でとんかつ屋をやっている方がいて、先日、彼と話をしたんですよ。その店はテレビにも出て、それ以来夏は忙しくてしかたない状態なんですが、どんなに忙しくても肝心なところは自分一人でやるんです。肉の状態を見ながら、お客さんに一番いい状態でだせるタイミングを計算してやっているんですね。だから人にまかせたくないと。自分で手をかけて、一番おいしいものをお客さんに、という発想なんです。商売ではあるんですが、1番おいしいものを、お客さんに出したい。それが99パーセントなんですね。僕も同じで、まあ話の結論は「結局、僕らはうまいものを作りたいんだよね」ということになりました。
|
どんな仕事でもそうですが、プラスマイナス、常に誤差がないようにしなきゃいけない。まあ、ほとんどないんですが、たまに、なんでこんなのが出来たんだ、ということがあるんですよ。出来が良すぎたなんてことが。そうすると、お客さんにとってはそれが基準になってしまいますから、あんまり良い物は作らないようにしなくちゃと(笑)。
実際にそうじゃないと仕事にはならないですね。だから、ある程度乱暴にやってもクリアできる基準にしておかないといけないんです。水準というものは絶対に保たないといけないので。 |
|
|
ミキサーは2台。卵の黄身と白身を別々に立てるためだという。「手間はかかりますが、その分味に反映されるんですよ」と田村さん。全卵を一緒に立てる“共立て”よりも生地がしっかりして、それでいて柔らかく、味もしっかりと仕上がるとのこと。
|
|
材料も同じようなものをくださいとは言いますけど、同じものをくださいとは僕は言いません。毎日違いますから。たとえば卵でいえば黄身の色が違うとか、白身の状態が違ったり、そういうのはけっこうあるんです。もちろん 最終的には口に入るものですから、安全性も考えて、すべて信頼しているところから仕入れています。
家庭でパンやケーキを作る場合とプロが作る場合と、どこが違うのか、とよく聞かれます。プロの秘密、秘訣ですね。
答えはすごく簡単です。教えてしまうと、量が違うんですね、1回に作る時の。家庭で作る時は、10人分も20人分も作りませんよね。僕らが作る場合より、決定的に量が少ないんです。量が少ないということは、塩が1g違えば、非常に影響を受けてしまいます。家庭で100gで作る場合と、僕らのように1kgで作る場合では、1gの比重が違うわけなんです。だからデコレーションを1台だけ作ってください、というのは逆に僕らはやりにくい。最低でも10台くらいないとできません。だから講習会の講師をやって、1個だけ作るというのはすごく難しい。クッキーとかですと、次の日まとめて焼きましょう、ということもできるのですが、スポンジとなると厳しいですね。
僕はパンもやっていましたけど、パンというのはケーキ以上に化学です。イーストと塩は多くても少なくてもダメです。バターは無塩のものを使って、塩を別に足していかないといけない。仕込む時の温度も夏場と冬場では違います。まあ、僕らは何年もやっていますから、室温を調整しておくとか、いろいろやります。なんでもそうですが、レシピプラスノウハウがすごく大事ですね。
道具もそう。焼き型なんかは、フッ素コーティングしてあると最初はいいんですが、だんだんダメになります。鉄やブリキは最初はダメなんですけど、使っているうちに焼きが入って、だんだん道具として完成されてくる。失敗の結果が成功なんですよ
。
|
「いちご亭」という店名は、一期一会というお茶の言葉からとりました。一期一会を大事にしながらお客さんとのコミュニケーションをはかって、おいしいものを作ろうと。ただ漢字だと読みづらいので、ひらがなにしたんです。フルーツの苺と掛詞にもなりますし、みんなが忘れないんじゃないかと。
この店を始めて17年になりますが、ケーキ屋を続けているのはやっぱり好きだからですね。結果的に好きになった、ということかもしれませんが、他のことは仕事としては考えられない。 |
|
|
|
下町の閑静な住宅街の中に佇む「いちご亭」の外観。
ジャズの流れる
店内では、珈琲や紅茶でゆったりとケーキを楽しむことができる。
■アクセス:都営新宿線・営団半蔵門線 住吉駅 A1口下車 徒歩3分
|
こういう時代ですから、小さい店というのは大変です。でもスーパーやチェーン店ばかりになってしまうと、その街の色とか、特徴とかなくなってしまいますよね。世の中って、効率やお金だけじゃありません。ケーキ屋にはケーキ屋のやり方があるし、パン屋にはパン屋のやり方がある。それなりの覚悟をして、仕事をしています。
仕事が生き甲斐じゃない、という人も世の中にはいます。お金だけで生きている人もいる。でも、仕事が生き甲斐で、それが生きる糧だという人もたくさんいるんですよ。
僕は仕事が好きですから、生きてるうちは仕事をしています。やっぱりケーキが好きなんです。ケーキというより、うまいものが好き。お金をいただいて品物を買っていただく、それで「おいしかったよ」と言っていただくと、それだけで励みになります。「まずかった」って言われれば、じゃ、がんばってみようと。この繰り返しなんですね。ケーキに限らずおいしいものを見れば、やっぱり作りたいって思いますからねえ。僕にとって、それが元気に生きていくための栄養なんじゃないかな、と思います。
|
|
田村 實(たむら・みのる)
有限会社 いちご亭 代表取締役
1948年生まれ。
洋菓子の老舗、六本木クローバーをはじめ
3店の責任者を務めた後、いちご亭を開業。
|
|
|