Special featured Article 007

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009. 「“人間の手”が欠かせない」第3回
建築家・柳澤 孝彦氏
「東京、そして再びNYへ 人間の手が創る奇跡」
[2004/01/07]




008. 「“人間の手”が欠かせない」第2回
建築家・柳澤 孝彦氏
「松本から東京へ 建築家をめざしたきっかけ」
[2003/11/19]




007. 「“人間の手”が欠かせない」第1回
建築家・柳澤 孝彦氏
「NY -摩天楼に刺激を求めて・若き日の柳沢孝彦-」
[2003/10/14]




006. 「いつもクルマがそばにいた」
ペーパーアーティスト・太田 隆司氏
[2003/06/02]




005. 「チーズケーキにつかまって」
有限会社 いちご亭 代表取締役 田村 實氏
[2003/04/04]




004. 「小江戸・川越 和菓子のルーツを訪ねて」
銘菓・亀屋本店社長 
山崎 嘉正氏
[2003/01/17]




003. 「500年の時空を超え現代にその輝きを放つ金唐革 壁紙のルーツを求めて」
株式会社義輝会長
白濱 輝雄氏
[2002/10/30]




002. 「民芸の里に息吹く芸術の火」
女流陶芸家 大宮司 道子氏
[2002/08/09]




001. 「江戸時代のデザイン感覚 ―歌舞伎に見る色と意匠―」
たばこと塩の博物館学芸員 谷田 有史氏
[2002/05/01]




 

  “人間の手”が欠かせない -建築家・柳沢孝彦-  

 
 
 

新国立劇場、 東京オペラシティ、東京都現代美術館など、現代の日本を代表する多くの公共文化施設を設計してきた建築家・柳澤孝彦さん。
都市計画についてや建築家をめざすきっかけなど、長時間にわたって伺ったお話を3回に分けて送ります。
NY -摩天楼に刺激を求めて・若き日の柳沢孝彦-
 
 
 


 1960年代後半、当時竹中工務店に勤めていた柳澤さんは、ニューヨークに企業留学を希望する。高層ビルの林立するマンハッタンの刺激的な光景が、自分の中の「なにか」を変えるのではないかという激しい想いを抱いていたのだ。留学が許可され、憧れの地ニューヨークへと渡った若き日の柳澤さんは、そこで何を見て、何を感じたのだろうか。

 「竹中工務店にいた頃ですが、海外企業留学でアメリカに行かせてもらったことがあるんです。1968年ですから1ドルがまだ360円の時代ですね。とにかく、あのニューヨークのマンハッタンに行きたかったんです。いわゆる空をかき取るようなエンパイアステートビルやクライスラービルなどの林立するマンハッタン。人の手が成せる術の極致だし、その凄さの只中に分け入ってみたいという激しい心の高鳴りがありました。ですからマンハッタンに住んでそれを体感したいと考えていました。まもなく会社の許可も出て行くことになりましたが、その時の緊張感は今でも忘れられません。竹中の海外駐在所がサンフランシスコに在ったので、海外生活のオリエンテイションも兼ねて約半年、そこで研修生活を過ごしました。このサンフランシスコは気候温暖でほとんど雨もなく、ゴールドラッシュにできた坂の街で、本当に魅力ある都市です。スペイン人が作った坂に沿ってベイウインドゥが続く街並は美しくもまた、「坂」の街特有の変化がかえって人間味豊かな親しみを街並に与えていて、私は本当にエンジョイしました。
 
 
 
   
 

 
 
サンフランシスコ
ケーブルカーや坂、公園など、数多くの名所が存在する、カリフォルニア州の湾岸都市。ビクトリア風の建物がしっとりと洗練された風景をつくり出す、光り溢れる港町だ。
   
 またここでは、時あたかもヒッピー全盛で、街角に新しい芸術のプレゼンテイションが広がっていました。新しい時代の潮流を予感させるもので、建築の世界でもポストモダニズムが頭をもたげはじめていました。

 新しい時代のうねりをここから発信している様子でした。そんな雰囲気を帯びた都市での生活が印象的でした。あの穏やかな気候と洒落た街並はリタイア組には楽園でもあるのでしょう。だからヒッピーが生まれたのかも知れませんね。19世紀末のヨーロッパの東の都市ウィーンが退廃的な政治や生活の熟れ過ぎが新しい芸術の発芽の引き金になったのと似ているかもしれません。ユーゲントスティールは東、アール・ヌーボーは西から、時を同じくして生まれでていますね。

 私の場合は一方でサンフランシスコを楽しみながらも常に気になっていたのは、あのマンハッタンでした。ニューヨークの想像を絶する驚きが自分を変えるのではないかとの期待感を膨らませ、刺激を求める私には、サンフランシスコは穏やかすぎたのです。日々その気持ちが高じて苛立ちを覚えていたのを今でも思い出します。

 いよいよニューヨークケネディ空港に着き、高鳴る昂奮を乗せたBUSはマンハッタンに向かいました。マンハッタン島を間近にしたあの夕暮れの景色は忘れ得ないものとなりました。林立する摩天楼のシルエットが暮れなずむ空を背景にして輝いていました。そのあまりにも美しい現実は私には想像を超えた異界との邂逅でした。
 
 
 
   
 

クライスラー・ビル(Chrysler Building)(1930)
エンパイアステートビルと並ぶ1930年代の摩天楼の代表的なビル。高さ世界一の座はわずかに一年あまりでエイパイアステートビルに奪われたが、アール・デコの美しいデザインは現在でも評価が高い。光が反射して輝く頂部のドームは、当時の造型感覚をよく伝えている。
 
 
   
 マンハッタンにおける生活はまさに異界の探訪の日々でした。摩天楼とはよく言い表したもので、空の高みへと林立する超高層ビルの集積密度は圧倒的なものでした。とりわけ、かのエンパイアステートビルやクライスラービルはそれぞれの尖塔を空へ向けて際だてていました。中でも私はアールデコを象徴するようなクライスラービルが好きです。時あたかも摩天楼の建設ラッシュの只中にたった19ヶ月で1929年完成のクライスラービルの尖塔の美しさは、その白眉に違いないと思います。往時の画家ジョージア・オキーフの伝記(ローリー・ライル著)の中に「77階の高層ビルのそのきらきらと輝く見事なクロームの尖塔から真直ぐに天に向かってのびる銀色の針は星を突き刺してしまいそうだった。」とあり、そして林立する摩天楼の夜景が視覚的ドラマとなり、「20世紀の宇宙時代を暗示した胸のわくわくする未来の展望であった。」と心ときめく見事な都市表現をいいあてています。

 人の成せる技の極致を実感するものです。そしてまた、活力溢れる人々のさまざまな生活の息吹がマンハッタンに実に濃密な空気を通 わせているのです。人間味溢れるこの大都会の魅力は筆舌に尽くせません。サンフランシスコが「想い出のサンフランシスコ」の歌のごとくに想い出の距離の中にあるのに比べ、ニューヨークは今も私の中に住んでいると言ってもいいのかもしれません。そしてなによりも、かようなニューヨークを建築してきた人々やその住人達のメンタリティに普遍的なのは、真の個人主義に徹していることです。他人の人格を尊重するということです。それでこそ自由が獲得できるのでしょう。他を尊重する心に初めて豊かで、ある種の統一ある街並が築かれるのだと思うのです。
 
 
 
   
 

 
 
ジョルジュ・スーラ(1859-1891)
新印象派の創始者。 科学的法則に基づき、タッチを分割し、網膜上で混色する「視覚混合」の技法を開発することによって、印象派よりもさらに明るい光の色の表現を実現した。作品には『アニエールの水浴』『グランド・ジャット島の日曜日の午後』などがある。
   
 

 
 
ベネチア
北イタリアのアドリア海のラグーンの上に形成された「水の都」 。160の運河と400を越える橋があり、自動車が一切走っていない。1987年、「ベネチアとその潟」は世界遺産に登録されている。
   
 即ち、美しい街並の形成は、隣を気遣う心無くしては成立しないのです。

 ベネチアの街並は美しい街の白眉ですね。ベネチアの一個一個の館は実に見事なデザインの魅力をそれぞれに発揮しています。しかし、それらは決して隣に攻撃的ではなく相互の調和をわきまえている。あたかも花園のごとく、個々の花それぞれが美しいとともに、それらの集合である花園全体も見事な美を達成している、という具合です。個と全体の調和が有機的な連携を作り上げているのです。その関係はまた私のとても好きな印象派のジュルジュ・スーラーの絵にも明らかですよ。スーラーの点描画は点の集積が絵を構成しているのですが、色と色は決して混じり合わずに、無数の色の点はそれぞれに色の純粋性を保持しながら互いに隣り合わせているのです。それがあの静謐で品格のある絵を作り上げているのです。

 ベネチアほど魅力尽きない都市はありません。地球上の他には存在し得ない異界に違いありません。

 では東京はどうでしょう。東京という街の皮一枚下には江戸があるわけですけども、それは東洋のベニスとまでいわれた美しい水路の街だったわけです。本当にすごく計算された網の目になっていた。地理的な条件をうまく利用して、自然に順応し、活かしながら豊かで個性的な都市が作られていたのです。ニューヨークで非常に感心したことは、数百ページを超える調査をして、それがきちんと開発に活かされていることです。都市計画や都市の再開発が、街の記憶や現況を充分に分析して、しかも長期的なビジョンを明確にして行われている様には敬意を払わざるをえません。日本にはまだ体系的なそういうものがありません。隣とまったく関係のない、むしろ攻撃的なほどに差別 化された建物がアナーキーに建てられ、その混沌こそが東京の魅力だなんて人もいますけれど、私はそうは思いません。都市計画が不在だからなんですね。そういう意味では日本人の中に真の個人主義というものが育たないと、ほんとに美しかったり、魅力のある街並みというものはなかなかできないのかもしれません」(次回に続く
 
 


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柳澤孝彦(やなぎさわ たかひこ)プロフィール
1935 長野県松本市に生まれる
1958年 東京芸術大学美術学部建築科卒業 (株)竹中工務店・設計部入社
1968〜69年 渡米、タケナカ&アソシエイツ・SF事務所及びコンクリン&ロサント・NY事務所にて設計活動
1981年 (株)竹中工務店東京本店設計部長
設計部長時代に手掛けた代表作は熱海MOA美術館、有楽町マリオン、大手センタービル、日蓮宗総本山身延山久遠寺大本堂(いずれも[BCS賞]受賞)などがある。
1985年 (株)竹中工務店プリンシパル・アーキテクト
1986年 [第二国立劇場(仮称)【正式名称 新国立劇場】]国際設計競技で、最優秀賞を受賞
同年 (株)TAK建築・都市計画研究所を設立
代表取締役に就任、文化施設を主軸にした設計活動を展開。
1990年 真鶴町立中川一政美術館にて第15回[吉田五十八賞]受賞
1992年 真鶴町立中川一政美術館にて第33回[BCS賞]受賞
1994年 郡山市立美術館にて第35回[BCS賞]受賞
1995年 [郡山市立美術館および一連の美術館・記念館の建築設計]にて第51回[日本芸術院賞(第一部・美術)]受賞
窪田空穂記念館にて1995年[日本建築学会作品選奨]受賞
1996年 東京都現代美術館にて第37回[BCS賞] [第14回日本照明賞] 受賞
1998年 新国立劇場にて日本建築学会賞[作品賞]受賞
郡山市立美術館、窪田空穂記念館にて第6回 公共建築賞[優秀賞]受賞
2000年 東京都現代美術館にて第7回公共建築賞[優秀賞]受賞
三鷹市芸術文化センターにて第7回公共建築賞[優秀賞]受賞
東京オペラシティ(JV)にて第1回American Wood Design Award / Merit Award受賞
2002年 桶川市民ホールにて第8回公共建築賞[優秀賞]受賞
●2000年4月18日号の「ニューヨークタイムズ」誌に、2頁にわたり、世界的な音響を成功させた東京オペラシティコンサートホールの設計者として紹介される。
関連リンク
◆柳澤孝彦+TAK建築研究所
◆身延山久遠寺オフィシャルホームページ
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